秩父霊場を歩く|第11番 南石山 常楽寺

“疫病退散”の御利益が得られるという「元三大師」のお札。

第10番札所の納経を終えたのは16時20分過ぎ。納経時間は17時までなので、次の第11番札所へ急ぐ。大慈寺の背後にある低い山は武甲山までつながっている。この低い山の連なりが横瀬の町と秩父市街の境となっており、先ほど辿った国道299号線がこの山を切り通しで越えている。この切り通しのあたりの地名は「坂氷(さかごおり)」といい、第11番 常楽寺は「坂氷の観音様」とも呼ばれる。

常楽寺は、国道299号線から坂道を少し登ったところにあり、秩父市街を一望できる。第10番札所から背後の山に登り、摩利支天堂を経て、上之臺(かみのだい)稲荷神社から参道を下り、常楽寺に至るルートが本来の遍路道のようだが、今回は急いでいたこともあり、時間のかかる山道を避け、車道を選んだ。

国道299号線から少し登った所に建つ常楽寺の小さな本堂。第10番札所と山を挟んで反対側にある。

常楽寺の創建時期は不明。この地には古くから観音堂が建っており、元文年間(1736〜1741年)に秩父市街の旧大宮町からこの地に移転してきた天台宗の常楽寺と合併したという。江戸時代には、観音堂、仁王門、庫裏を備えた立派な寺であった。しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令により廃寺となり、本尊の十一面観世音菩薩像のみ坂氷に建てられた仮堂に安置された。さらに明治11年(1878年)に起きた秩父の大火でかつての堂宇は消失した。再建されたのは明治30年(1997年)になってからで、このときに他の秩父霊場と同じ曹洞宗に改宗されている。

「観音霊験記」の常楽寺の由来を写した奉納額。ここには開山に関わった門海上人の姿が描かれている。

本尊は像高90cmの十一面観世音菩薩の立像で、金箔押しの木造仏。寺伝には行基の作とあるが、飛鳥や奈良時代のものとは思えず、江戸時代に作られたものだと考えられている。光背や手に持っているはずの蓮花が失われ、金箔が剥げたその姿は、秩父の大火の影響だろうか。

常楽寺の開山に尽力した僧に門海上人がいる。観音堂を建立の後、仁王門を建てるため、資金集めに奔走した。ようやく着工したところで、上人は病に倒れてしまった。手に入れた薬でも症状が改善せず、もうだめかと思っていると、枕元に金剛神(金剛力士)が現れた。金剛神は上人を手をとって、助け起こすと、「仁王門建立には自らも助力いたさん」と言った。翌日には上人の症状は改善し、無事に仁王門は完成したという。この逸話が、「観音霊験記」の常楽寺の項に描かれている。こうした言い伝えもあり、坂氷の観音様は、病気平癒、長寿祈願の御利益があるとされてきたのだろう。

常楽寺の境内から上之臺(かみのだい)稲荷神社に向かう参道が延びている。

この寺の納経所で御朱印をいただいていると、部屋の壁に貼られた「元三大師(がんざんたいし)」の御札が目に入ってきた。元三大師は通称で、良源という。彼は平安時代の天台宗の僧で、比叡山延暦寺の中興の祖と言われている。一般的には慈恵大師の名が知られている。元三大師の名は、彼の命日が正月の3日だったことから、入滅後に使われるようになった。また、常楽寺では1月3日に元三大師の縁日が行われるとのこと。

この良源は観音の化身と言われており、観音菩薩が衆生を救うために33の姿に化身するという「法華教」の説に基づいている。疫病神を追い払う際には、2本の常を頭に生やし、夜叉のような痩せた姿になったとされ、その姿から「角大師」と呼ばれることもある。厄除け、病除けに用いられる御札には、角大師の姿が描かれ、霊験あらたかであると信じられている。

なお、元三大師の信仰は天台宗の寺に伝わるものだが、常楽寺は曹洞宗。これは、明治30年に曹洞宗に改宗されるまで天台宗の寺であったためで、天台宗だった江戸時代には、元三大師信仰で賑わったのかもしれない。

納経を終えると16時50分を過ぎていた。間もなく常楽寺は閉門となる。日が傾き、周囲の空が色づく様子を眺めながら、西武秩父駅に向かって、坂を下り、本日の霊場巡りを終えることにした。