秩父路へ夏祭り見物に

2022年7月、新型コロナウイルスの感染拡大は続いているが、行動制限が出されず、イベント開催も容認される空気の中、各地で夏祭りが3年ぶりに開催されている。京都の祇園祭を筆頭に、全国の神社では神輿や山車が町を練り、境内や門前町には露店がならび、賑やかな祭り囃子に地元の人だけでなく、遠方から訪れる人々の表情も明るく感じられる。

秩父の祭というと12月初旬の「秩父夜祭」が有名だが、これと対を成すように7月19・20日には「秩父川瀬祭」が開催される。この「秩父川瀬祭」は「おぎおん」と呼ばれることもあり、京都の祇園祭の流れを汲むとされている。祇園祭と同様、疫病除けが目的とされ、秩父神社の神輿が荒川の河原まで巡幸し、川に入り水の霊力で御輿や担ぎ手を清めることが、祭の目的の1つとなっている。

7月20日10時、御輿一行は隊列を組み、秩父神社を出発し、荒川の河原を目指す

秩父路は、奥多摩とともに日帰りでちょっと旅気分を味わえる場所として、学生時代から何度となく訪れている。昨秋には、秩父三十四ヵ所観音霊場巡りも始め、再び秩父通いをするようになった。今回は、3年ぶりに開催される「秩父川瀬祭」を見物しようと、7月20日の朝、西武鉄道の電車に乗って秩父へ向かった。

10時前に秩父神社の境内に入ると、本殿付近で神事が行われている模様。新型コロナの件もあり、入場制限がかかっているようで、御輿の出発を神社の外で待った。10時を10分ほど過ぎると、御輿一行は神社から出てきた。神職や雅楽を奏でる人、氏子、供物の列の最後に御輿が出発する。

秩父市街は荒川の河岸段丘上にあり、西にある荒川に向かって坂を下ってゆく

秩父神社のある町の中心部は荒川の河岸段丘の最上部。荒川の河原を目指し、3段ほどある段丘を1つ1つ降りてゆく。車がすれ違うのがやっとの狭い道路をゆるゆると進むと、所々の交差点で、この地域の屋台や笠鉾がお囃子を奏でながら、御輿を迎える。

御輿一行は住宅地の中をゆっくりと進む

御輿は途中休憩を取りながら1時間強で荒川の河原に到着。このあたりは「武の鼻」と呼ばれ、古くから御輿の渡御が行われる場所だと伝わっている。脇には武之鼻橋(1953年竣工)が架けられている。橋が架けられる以前は、「竹の鼻の渡し」があり、秩父の中心部(大宮郷)と上州・越後を結ぶ交通の要衝であったらしい。対岸の斜面には竹林があるが、これが「竹の鼻」の語源だろうか。対岸の地名は寺尾なので地名ではなさそう。鼻は川が蛇行して突き出した地形を意味するようで、竹が繁る鼻という意味だろうか。なお、いつの間にか「竹」は「武」に書き換えられてしまったが、地名ではよくある話。

御輿は武之鼻橋(後ろのコンクリート橋)の袂から荒川に入ってゆく

河原では、御輿をうま(御輿の台)に載せると、担ぎ手は荒川に入って、身を清める。御輿まで戻ると担ぎ上げ、そのまま流れの中へ。ここからは、流れに逆らい、浅瀬を上流に向かって進む。

荒川に入った御輿は上流に向かって150mほど溯ってゆく。水深は浅いが流れは速い

こちらも御輿を先回りするため、急いで河原を移動。御輿が川から上がる場所には、葉のついた青竹を四方に立て、注連縄で結び、四手(しで)を垂らした斎竹が設けられ、神職が御輿の到着を待つ。御輿は流れの速い場所にさしかかり、傾いたり、担ぎ手が御輿を肩から外してしまったり、思うように進まない様子。

河原では多くの見物客が固唾を飲んで見守る中、ゴールに近づくと、担ぎ手は水の中に御輿を降ろした。担ぎ手は御輿を清めるように荒川の水を両手ですくい、盛んに御輿にかけ始めた。これがクライマックスなのだが、厚い人垣に阻まれ、私の位置からはよく見えなかった。

秩父市の中心部では、屋台や笠鉾が町を練り歩く

昼頃、御輿の渡御が終わり、秩父神社まで戻ると、メインストリートの本町通りを中心に、各町の屋台や笠鉾が祭り囃子を奏でながら、行ったり来たりしていた。例年であれば、2つの屋台や笠鉾がすれ違う際に行われる「曳き別れ」が中止になるなど、本来の熱気には及ばないが、久しぶりの祭開催にどの屋台や笠鉾も声を張り上げ、扇子や提灯を振りながら舞っていた。

屋台や笠鉾は日没後、灯りが入り、その動きが活発となるのだが、昼間の暑さで疲れ果ててしまったので、18時過ぎには西武秩父駅まで戻った。

周囲が暗くなると屋台や笠鉾に灯りが入り、夕暮れの町を明るく照らす

御輿が荒川まで渡御し、川に入る「お川瀬」と秩父の大宮郷の各町が参加する屋台と笠鉾の巡行、この2つが「秩父川瀬祭」の見どころ。今年は新型コロナ対策をとりながらの開催のため、簡略化された部分もあったが、久しぶりに祭の雰囲気を楽しむことができた。次は12月の「秩父夜祭」か、あるいは秩父三十四ヵ所観音霊場巡りの続きか、いずれにしても秩父へは足繁く通うことになりそうだ。