中野区に残る大正モダニズム建築

門の妻面には、鉛筆のように頂部を三角形にした溝状の装飾があり、中央部には記章を入れる菱形の台座。

西武新宿線沼袋駅の南口に出て、駅前のバス通りを南に下ると、右手前方の丘の上に緑豊かな公園が見えてくる。「平和の森公園」と呼ばれるこの公園は、中野区民の憩いの場となっている。この公園が部分開園したのが1985年。ある施設の跡地に作られた。

ある施設とは中野刑務所で、1983年3月まで受刑者が収容されていた。敷地の北半分は平和の森公園として1985年より順次開園し、南半分は中野水再生センター(都の下水処理場)が建築され、1995年から使用されている。閉所の際、建物の大部分は解体されたが、敷地の南端にあったレンガ造りの正門のみが残された。正門のある場所は、法務省、財務省管轄を経て、現在は中野区の用地となっている。しかし、普段は公開されておらず、外から眺めることしかできなかった。今回、2021年11月5日、6日の2日間、特別公開されたので、見学してきた。

刑務所の正門の妻面。扉の上側は階段状に積んだアーチ状のデザイン。

旧中野刑務所は、大正4年(1915)年に設置された豊多摩監獄としてスタートし、戦後は米軍に接収され、1957年に返還された際に、中野刑務所と改称した。大正から太平洋戦争の終結まで、小説家の小林多喜二(代表作は「蟹工船」)や壺井繁治(壺井栄の夫)などの思想犯も多く収容されたことでも知られている。

建物は、司法省の建設技師だった後藤慶二(1883〜1919)が設計し、自ら工事主任として建設に従事したもの。後藤は東京帝国大学工科大学建築学科で最新の建築技術を学んだ。このとき指導にあたったのが、東京駅丸の内駅舎、日本銀行本店、大阪市中央公会堂などを設計した建築家の辰野金吾だ。研究熱心な後藤は、構造と意匠の関係を考察し、建設設計を芸術の域まで高めようと努力した。

門の左右には鉄格子の嵌まった窓。上部がアーチ状になった優美なもの。

後藤慶二の建築に対する考え方が色濃く投影されている豊多摩監獄。監獄とは思えないほど優美で、暖かみのあるデザインの建物だった。しかし、大正12年(1923)の関東大震災では、複数の建物に被害が出てしまった。でも、レンガ造りの正門は無傷で残り、今なお建築当時のまま。大地震でも崩れない構造的強度もさることながら、門扉の形状やレンガの積み方、妻面の装飾など、実に見ごと。

門の側面には面会の受付が設けられていた。門の建屋の中から見る受付窓。

豊多摩監獄の建物は、後藤慶二が手がけた最初で最後の大きな仕事。彼は、明治神宮宝物殿の設計コンペに参加したこともあるが採用には至らず、個人宅の設計を数件したくらいで、大きな建造物を手がける機会はなかった。それというのも、36歳でスペイン風邪に腸チフスを併発し、亡くなってしまったからだ。

鉄板の枠に木製の格子枠が埋め込まれた重厚な門扉。

この優美なレンガ造りの正門は、関東大震災にも、太平洋戦争の戦禍にも耐えてきたが、近隣の小学校の移転用地となり、解体の憂き目に遭う可能性が高かった。保存には金がかかる、というのが解体する大きな理由だが、強い反対運動もあって保存が決定した。2021年6月4日には中野区指定有形文化財に指定されたこともあり、今回の見学会が開かれたようだ。建物の歴史的な価値もさることながら、昭和初頭から戦時中にかけて思想犯を多く収容した思想弾圧の象徴としても保存する価値があるだろう。移築を終え、公開する際には、その歴史的背景を解説した展示も併せて行ってほしい。