第5番 語歌堂から寺坂の棚田を見ながら進むと、第7番 法長寺の屋根が見えてくる。札所の番号の順にまわることもできるが、第7番に寄った後、第6番を回るほうが歩きやすい。なので、実際には第7番を先に参拝したが、第6番 卜雲寺について先に記す。
第6番 卜雲寺は、横瀬の町の東端。山の中腹に建っている。このあたりは、隣りの芦ヶ久保とともに果樹園が多く、晩夏から秋にかけてはブドウ、晩冬から春にかけてはイチゴの栽培が盛ん。卜雲寺も車道から果樹園脇の細い道を少し上った先にある。南向きの斜面に広がるぶどう棚、その奥に築かれた石垣の上に卜雲寺はあった。
奥行きがあまりない境内に、本堂(観音堂)、庫裏がひっそりと建つ。現在の本堂は明治9年(1876)の火災で全焼し、その後に再建されたもの。本尊は境内からも見える武甲山山頂の蔵王権現にあった聖観世音菩薩像(平安時代に彫られた一本造りの立像)が移されたものと伝えられている。卜雲寺は「荻野堂」あるいは「萩野堂」とも呼ばれており、寺には江戸時代に記された「萩野堂本尊並開基之縁起」(1781)という由緒書が残されている。
あるとき、村人がこの地にあった「とが池」に棲む大蛇を退散させるために武甲山の蔵王権現に祈願したところ、その霊験あって、大蛇を駆除できた。この池は埋め立てられ、そこに小さなお堂を建て、蔵王権現にあった観音像を安置したとある。この「とが池」の場所は、卜雲寺の南、約1.5kmほどの所にある根古屋城が作られた山の麓にあったと考えられる。実際には池というより窪地に水がたまった湿地で、あたりには荻(おぎ:イネ科の植物でススキの仲間)が群生していたことから「荻野堂」と名づけられたのだろう。
荻野堂は江戸初期に開山した卜雲寺が別当(管理者)となり、やがて卜雲寺に観音像が移され、「荻野堂」とも呼ばれるようになった。荻と萩は字こそ似ているが、まったく異なる植物(萩はマメ科)であり、「萩野堂」というのは表記の誤りによるものに違いない。
卜雲寺と関連のある話として、こんなものもある。聖武天皇の時代というから奈良時代だろう。武甲山には山姥がいて、麓の人々を苦しめていた。この地を訪れた行基(東大寺を建立した僧)に村人が山姥の話をすると、彼は武甲山の蔵王権現社に参籠し、山姥をこらしめた。山姥はもう悪さをしないと誓い、自らの歯を3本抜き、献上したという。その証しに行基は聖観音像を刻み、武甲山山頂の蔵王権現に安置した。
蔵王権現とは、修験道の本尊であり、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊が合体したもの。修験道の成立時期ははっきりとしないが、日本古来の山岳信仰に仏教、密教などが加わってできたと考えられている。密教を空海が中国から持ち帰ったものだとすると、修験道は平安時代以降に確立されたことになる。行基の存命中にはまだ修験道は存在せず、蔵王権現に籠もったという話はいかにもおかしい。修験者がその信仰を広める際に、有名な僧の功績をことさら大きく喧伝する手法はよくあること。現代風に言えば、話を“盛った”ということだろう。とが池に棲む大蛇と山姥、どちらも土地の人々を苦しめた存在。大蛇から想起されるのは川の氾濫などによる水害だ。この水害を治めたのが治水の知識のある僧侶である、という話はありそうな気もする。
では、卜雲寺の名前はどこから来たのか。寺を開基したとされる嶋田与左衛門の法名が「卜雲源心庵主」であったことから、卜雲寺とされたと説明書きにある。「卜」(ぼく)は占いを意味し、朝鮮や中国では広く姓に使われきた。日本では、俳優の左卜全が有名だが、これは芸名であり、その由来についてはわからない。
ここで解釈に悩むのが、江戸時代の観光ガイド「秩父観音霊験記」に描かれた卜雲寺の逸話。卜雲寺の由来について語っているが、これまでの由来とは趣が異なる。6年間、和歌の修行をしていたある禅僧が、「初秋に風吹き結ぶ荻野堂 宿かりの世の夢ぞ覚めける」という和歌を詠む声を聞いた。その声の主を探していると、一株の荻の下に詠歌が書かれた短冊を見つけた。霊験ありと考えた禅僧は、この場所に堂宇を建立した。これが荻野堂、すなわち卜雲寺だ。
卜雲寺を開基した卜雲源心庵主が、件の禅僧なのだろうか。古くから歌人で「卜」を含む号を持つ者は少なくない。和歌が好きな禅僧が、卜雲寺を開いたとすると話の辻褄が合うように思えてくる。