秩父霊場を歩く|第7番 青苔山 法長寺

平賀源内が設計したと伝わる立派な本堂。

横瀬川の東側、河岸段丘の上に第7番 法長寺がある。東向きに建つ山門の左右には、崩れて歪になった石碑が立つ。右側の碑には「法長禅寺」、左側の碑には「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」とある。「葷」は、ニンニクやニラ、ネギなどの臭いが強い野菜を指すそうで、これらの臭い野菜や食べ物と酒は、修行の妨げとなる。そのためこれらを口にした者は寺に入ってはならない、という意味のようだ。禅宗の寺にはよくある戒めの言葉だ。

門をくぐると正面に立派な本堂がある。秩父霊場の中で最も大きなお堂(間口24.4m、奥行き18m)で、平賀源内の設計によるものだと伝わっている。平賀源内は江戸中期の発明家で、香川県の出身。博学多識な源内は、蘭学者、戯作家などでも知られるが、鉱山の採掘や精錬の技術にも精通しており、川越藩の依頼で奥秩父の中津川などで鉱山開発を行った。そのため、秩父各地に源内の設計した建物が残されている。なお、本堂は昭和に入って、一度改修されており、あまり古さを感じさせない。

山門の左右には戒壇石(石碑)が立ち、左側の石碑には「不許葷酒入山門」と刻まれている。

本尊は十一面観世音菩薩像で、寺伝には行基作とあるが、実際に作られたのは江戸時代だと考えられている。

第7番札所は元は牛伏堂と呼ばれ、法長寺の南にある三菱マテリアルの社宅と西武秩父線に挟まれた付近にあったという。牛伏堂の由来は、牧童が草刈りをしていると、一頭の牛が現れ、地に伏せて動かなくなった。哀れに思った牧童は、この牛に寄り添い、一夜を明かした。朝、気づくと牛の姿はなく、そこには十一面観音像があった。この話を聞いた村人は、その牛を観音菩薩の化身と考え、お堂を建立し、十一面観世音菩薩像を安置した。

この牛伏堂は16世紀末に開山した法長寺が管理していたが、天明2年(1782)の災害(水害か火災かは不明)により、十一面観世音菩薩像は法長寺の本堂に移された。これに伴い法長寺が第7番札所となった。第7番札所が、第5番と第6番の間にあるのは、こうした本尊の移動が関係しているのかもしれない。

地に伏せて動かなくなった牛が、十一面観世音菩薩像に変わった逸話を示す「牛伏」の像。

江戸時代に作られた「秩父観音霊験記」には、別の由来が描かれている。花園城(埼玉県寄居町にあった)の城主、花園左衛門の家臣某は、平将門の乱に荷担した。乱が鎮められると、山林に隠れたが亡くなってしまった。観音像を携えてこの兵乱を避けようとしていた僧が、この家臣の亡骸を弔い、塚を築いた。このことを家臣の妻に伝えると嘆き悲しんだ。あるとき、妻の実家で牛が生まれた。この子牛は妻に懐き、亡き夫の塚にも連れて行くことになった。すると子牛は塚に跪いて、涙を流し、自分があなたの夫であると人間の言葉を放った。また、この観音像を供養すれば成仏できるとも言った。これを聞いた妻は尼となり、観音様に祈りを捧げ続けた。その後、畜生となった夫は人間に生まれ変わることができたという。なんとも荒唐無稽な話だが、十一面観世音菩薩の霊験のスゴさを語り、牛伏堂の由来を語った逸話として流布された。

横瀬川の段丘上にある境内からは、対岸にある三菱マテリアルのプラントが間近に見える。

法長寺の御詠歌は、牛に生まれ変わった男の話に即して作られている。

「六道を 兼ねて巡りて 拝むべし 又後の世も 聞くも牛伏」

六道は仏教における輪廻転生する6種の世界を指し、牛は畜生道で、罪を犯した男は畜生道に落ち、妻が仏に帰依することで、成仏し、再び人として蘇るという逸話と合致する。こうした話は修験者が広めたのか、それとも法長寺の宗派、曹洞宗の僧が法話として語ったものか、定かではない。