秩父霊場を歩く|第9番 明星山 明智寺

横瀬から見る武甲山。

第8番札所の西善寺からは左手に武甲山を見ながら、西武秩父線の線路の脇を進む。右手の高台にはプラントの2本の煙突がそびえ立つ。武甲山で採掘された石灰石は約3kmもある長いベルトコンベアでプラントに運び込まれる。ホコリっぽく、殺風景な一帯を抜け、周囲に人家が増えてくると第9番札所に到着する。

武甲山の石灰石は秩父市側から採掘を始め、大正末期には渋沢栄一の協力により秩父セメント(現在の秩父太平洋セメント)が創業された。秩父鉄道が開通すると、沿線にセメント工場が作られ、熊谷を経由してセメントが供給されるようになった。一方、横瀬も武甲山の麓にあるが、横瀬川の段丘上に畑や田んぼが広がる農村地域で、一部に絹織物が生産される工場があるだけだった。ところが、1969年の西武鉄道秩父線の開通に伴い、横瀬町に三菱セメントが進出する。これが明智寺のすぐ南側に建つセメントプラントだ。これにより静かな山里を巡る遍路道も大きく様相を変えることになった。

三菱マテリアル横瀬工場のシンボル、2本の煙突と高くそびえるプラント。明智寺はその北側にある。

明智寺は鎌倉時代初頭、建久2年(1191年)に明智禅師と呼ばれる僧によって開創されたと伝わるが、定かではない。狭い境内の小さな寺で、平成元年に建てられた真新しい観音堂と庫裏が建つ前は、明治16年に落雷で本堂が焼失して以来、小さなお堂があるだけだったという。かつては、田んぼや畑が広がる中にポツンと建つ小さなお寺であったのだろう。

本尊は如意輪観世音菩薩の右膝を立てた座像で、金箔押しの雲光紋を施された舟形光背を負う。像高は27cmと小さく、腕は4本ある。右腕の1本は胸の前で如意宝珠を持ち、もう1本は肘を膝に、頬に手を当てる姿勢をとる。左腕の1本は法輪を持ち、もう1本は高く掲げた掌に小さな菩薩像を載せている。奈良の室生寺や京都の醍醐寺などで見られる如意輪観世音菩薩は6臂なのに対し、当寺の観音像は4臂で、他にあまり例がないようだ。

開放的な境内には六角形の屋根を持つ観音堂、その左側に庫裏と納経所がある。

如意輪観世音菩薩像は天台宗の僧、惠心僧都の作と言われるが、彼は平安中期に比叡山の横川に住した僧。寺が建立された時期との間に開きがあり、菩薩像の由来についてはよくわからない。このあたりでは、安産子育ての観音菩薩として親しまれており、毎年1月16日の縁日には御利益を求め、女性参拝者が多く訪れるという。

観音堂に向かって左手には、簡素な覆屋(おおいや)があり、石碑と石造りの地蔵菩薩像が祀られている。扁額には「文塚」と書かれ、石碑には「ふみ塚」と刻まれているのがわかる。詳細はわからないが、女性の願いとあることから、安産・子育ての願いが関係しているのかもしれない。

このことは、観音堂と文塚の覆屋に吊された「猿子の瓔珞(さるこのようらく)」からも感じられる。これは子ども用の綿が入った袖なしの羽織をイメージした簡素な人形を複数個、ヒモに吊したもので、厄除けや病気を避ける祈願を行う際に用いられる。一種の身代わりとして軒先などに吊し、厄災を避けるという風習に根ざしているようだ。

境内の西側には石碑と地蔵尊が収められた簡素な覆屋がある。石碑には「ふみ塚」と刻まれている。上からは猿子の瓔珞(さるこのようらく)が吊されている。

明智寺の由緒を描いた「観音霊験記」にはこんな話が描かれている。天正の頃というから、16世紀後期のこと、横瀬の里に兵衛という子どもがいた。家は貧しく、目の見えない母親と2人暮らしだった。木の実を拾い食べていたとあるので、困窮具合は相当なものだったのだろう。ある日、老僧と出会い、「母の病を治したければ、この妙文(経典)を唱えさせよ」と言われた。早速、母親を明智寺の観音堂まで連れて行き、彼女は「無垢清浄光(むくしょうじょうこう)」「恵日破諸闇(えにちはしょあん)」の2句を夜通し唱えた。2つの句は「汚れのない清らかな光」「その智慧の光はあらゆる闇を破る」という意味になる。

朝になり、周囲が明るくなってくる頃、内陣(観音堂の仏像が安置してある場所)からまばゆい星が飛び出してきて、母親の頭上を照らした。すると母親の目が見えるようになり、親子は喜び、改めて本尊を拝んだという。この話が広く伝わり、耳にした領主は兵衛の孝心に感じ入り、田畑を賜った。この話は、明智寺の山号、明星山の由来ともなっている。

本尊が安置された観音堂はくすんだ朱塗りが特徴。その前には大きな錫杖が立てられている。

朝9時頃、第1番札所に参拝したのを振り出しに、札所を順番に巡り、この9番札所に着いたのが15時半過ぎ。ここまで14kmほど歩いたことになる。昼食も携帯食を口にしただけなので、ほぼ歩きづめで少し疲れてきた。近くに西武秩父線の横瀬駅があるので、このまま帰ることもできたが、少しでも前に進みたいという気持ちのほうが強い。まだ日も高いので、第10番札所に向けて歩き続けることにした。