秩父霊場を歩く|第8番 青泰山 西善寺

モミジの巨木で知られる西善寺。

第6番札所の卜雲寺からは武甲山に向かって進むことになる。この辺りは果樹園が広がり、ブドウの収穫の時期には多くの家族連れで賑わう。ブドウ狩りの観光客を姿を横目に見ながら歩くと、段丘を下り、横瀬川を渡る。対岸には飯能から秩父へ向かう国道299号線と西武鉄道秩父線が東西に走り、その下をくぐって、さらに南下する。

卜雲寺から歩き始めて25分ほど経つだろうか、田畑が広がる中、これまで歩いてきた段丘より、さらに一段高い段丘上に寺が見えてきた。

簡素だが風格のある山門には「東国花の寺 百ヶ寺」と書かれた表札。

武甲山の北麓にある第8番札所の西善寺は、平安末期、文暦元年(1234)に開創されたと伝わる。現在、本尊は十一面観世音菩薩となっているが、本堂の中央には阿弥陀如来像が安置され、右側に勢至大菩薩像、左側に十一面観世音菩薩像が配されている。事実上、阿弥陀如来が本尊扱いになっていることから、西善寺はもともと浄土宗か浄土真宗であった可能性が高い。浄土宗、浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と唱えることからわかるとおり、阿弥陀如来を信仰する宗派。また、阿弥陀如来に勢至大菩薩、観世音菩薩を加えた三尊をまつることから天台宗であった可能性も考えられる。

西善寺には、こんな話が伝わっている。戦国時代に入ると寺は衰退していたころ、1人の旅の僧がこの地を訪れ、村人にこの寺の御詠歌を尋ねた。ある老人が「ただたのめ まことの時は 西善寺 きたりむかえん弥陀の三尊」と答えると、旅僧は「ありがたい御詠歌である」と言い、面白い節をつけて御詠歌を唄いいながら踊った。村人もこれにならって唄い、踊った。これ以降、村人は折にふれてこれを唄い、踊るようになり、人々は心と生活にゆとりを得るようになったというもの。なお、「まことの時」とは、天寿を全うし、亡くなろうとする時をいう。江戸時代に作られた「秩父観音霊験記」には、西善寺の項にこの話が描かれている。

このように念仏を唱えながら踊ることを「踊念仏」と言い、平安時代の僧、空也が始めたとされる。この布教スタイルは時宗や浄土宗などで盛んに行われた。このことも西善寺と浄土宗の繋がりを感じさせる。

阿弥陀如来像に勢至大菩薩像、十一面観世音菩薩像を加えた三尊が安置された本堂。

本尊の十一面観世音菩薩は他の寺から移されたという話もある。武甲山の南に大持山、小持山という山があり、その山中に持山寺があった。持山寺は通称で、正式には阿弥陀山念仏寺という名前であり、現在は完全に廃寺となっている。その寺域に十一面観音像をまつる持山観音堂があり、円福寺の住職、竹印松岩(秩父霊場の多くの寺に縁のある僧)が西善寺に移したとされる。

山門をくぐり、境内に入ると、まず右手ある巨木に目を奪われる。樹齢約600年のコミネモミジと名づけられたモミジの木で、樹高9mm、枝廻りは50mもあるという。晩秋の紅葉の時期は見ごとで、モミジ目当ての参拝客で賑わう。

本堂は平瓦葺きの入母屋造りで、文化7年(1810)に消失し、弘化2年(1845)に再建されたようだ。本尊の十一面観世音菩薩像は木造立像で、江戸期に作られたと考えられる。もし、持山寺にあった持山観音を移したというのであれば、一度、消失し、江戸中期〜後期に作り直されたと考えるのが自然だ。

樹齢約600年のコミネモミジが、境内の中央に鎮座する。春の新緑、秋の紅葉の頃は見ごとに違いない。

西善寺のすぐそばに、武甲山御嶽(おんたけ)神社の里宮がある。武甲山御嶽神社は武甲山山頂に鎮座する社で、険しい山上にあることから、麓の横瀬に武甲山御嶽神社の出張所とでもいうべき里宮が置かれた。武甲山上まで行くのが困難な者や日々の暮らしの中で武甲山に祈りを捧げる場として設けられたと考えられる。里宮の本殿は東向きに建てられ、左手に武甲山を見ながら参拝する形となる。また、境内からは石造りの鳥居越しに武甲山を望むことができる。

武甲山御嶽神社の里宮の入口に立つ石造りの鳥居。

里宮の境内には朱塗りの神楽殿が設けられ、毎年、4月15日の祈年祭と10月1日の例大祭に太々神楽が奉納される。太々神楽は、特に大がかりな神楽という意味で、祭礼の際に、神様に捧げる歌や舞の総称。この里宮でも、全国各地で行われる太々神楽と同じように「翁渡し」「天狗舞」「岩戸開き」などの曲目がある。神楽の起源は文禄5年(1596)の戦国末期で、400年以上の歴史を持つ。

鮮やかな朱塗りの板壁を持つ神楽殿に落ちる木々の影が印象的。

武甲山御嶽神社の里宮にすぐそばに井戸がある。城谷沢の井と呼ばれ、すぐ東側の山上にあった根古屋城の開城とともに掘られたものと想像される。築城された時期は不明だが、天文年間(1532〜1555)に関東管領の上杉憲政がこの地に逃れてきて、一時滞在していたことが記録に残っている。この後、北条氏邦(鉢形城主)の家臣、朝見伊賀守慶延が城主となった。この時期に地元の産業として絹布の生産を奨励し、糸の染色の際にこの井戸を利用したことから、ここを「秩父絹発祥の地」としている。その旨、案内板にも記されている。

この地で作られた絹は「根古屋絹」と呼ばれ、無地の絹織物の代名詞となった。やがて、根古屋絹は高度な染色技術を用いることで「秩父銘仙」へと進化し、高級な絹織物として、もてはやされるようになった。

「秩父絹発祥の地」とされる城谷沢の井。

根古屋城は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの折に、前田利家らの攻撃を受け、北条氏邦の居城、鉢形城(寄居町)とともに落城し、廃城となった。その後も井戸は地元の農地や絹織物に利用されてきたのだろう。

1960年代まで、蚕糸生産と絹織物生産は盛んだったようだが、生糸の輸入が増加し、きもの離れが進んだことで、秩父、横瀬の絹織物産業は衰退した。桑の栽培が減り、養蚕農家も廃業し、織物工場も消えた。今でも、秩父や横瀬を歩くと、畑や田んぼの隅に桑の木が残っていたりする。

絹織物産業が衰退する時期は高度経済成長の時期と重なる。全国でセメント需要が急増し、これに応える形で秩父、横瀬での石灰石の採掘量が急増する。1981年には武甲山山頂から階段状に掘削する「ベンチカット」工法による採掘が始まり、石灰岩鉱業が横瀬の主要産業となっていった。

次の第9番札所は、武甲山の石灰岩を利用したセメントプラントのある三菱マテリアル横瀬工場のすぐ脇にある。しばらくは石灰を満載したダンプの行き交う車道を歩き、巨大な横瀬工場のプラントを眺めながら歩くことになる。