四萬部寺から真福寺への道は緩やかな登りが2kmほど続く。高低差は180mほどで、歩いて40分ほどの行程だ。田畑が広がる集落を抜けて人家が途切れると、道は森の中をゆくようになり、勾配も険しくなってくる。山の反対側から登ってきた道と合流するT字路を過ぎると第2番札所はすぐだ。
第1番から徒歩で登ってくると、本堂の裏から入る形になる。小さな本堂は明治41年(1908)に再建されたもので、正面には立派な唐破風が施された向拝(ひさし状に飛び出した屋根の一部)を持つ。向拝の軒下にある龍の彫刻は立派なもの。本尊は聖観世音菩薩で、室町時代に造られた一本造りの立像だという。本尊が収められた厨子の前には前立本尊の観世音菩薩像があり、閉じられた格子戸の隙間から見える。
現在、真福寺は無住の寺となっていて、小さな本堂(観音堂)と今は使われていない庫裏が残るのみ。観音堂から石段を降りると広い空き地があり、駐車場として使われている。かつては、大きな本堂や仁王門のある大きな寺であったが、江戸末期(1860年)の大火で、本尊を残してすべてが失われたようだ。秩父観音霊場の1つでもあるため、後年、聖観世音菩薩を安置した観音堂のみが再建されたのであろう。
この寺の創建は不明だが、秩父霊場に残されている番付を頼りに類推すると、16世紀の初頭には存在していたようだ。言い伝えによると、この付近の山中に修験僧によって聖観音像が安置された鬼丸窟(洞窟)があった。やがて、鬼丸窟が崩壊すると、現在の真福寺の南東900mほどの場所にあった大棚古堂に移され、真福寺と呼ぶようになった。江戸時代に入ると、近くの光明寺の住職(鉄厳全鈯)によって、現在の場所に真福寺が移され、曹洞宗の寺となる。
初め秩父観音霊場は33ヶ所だったという。1488年の番付には真福寺の名は無く、寺の数は33だった。次に古い1566年の番付では真福寺の名があり、寺の数は34になっていた。この間に34番目の霊場として真福寺が加えられたと考えられるが、当時、真福寺のあった場所は、今よりもずっと南東の山中にあったとされる。現在の1番から2番を経て3番に向かう巡礼路から大きく外れることになり、不自然な気もする。大棚古道から今の場所に真福寺が移ったのは16世紀初頭で、光明寺の住職が真福寺を曹洞宗に組み入れ、寺を大きくしたのが江戸初期だとすれば、辻褄が合う。
真福寺には「観音霊験記 秩父順礼」に描かれた縁起も伝わっている。大棚禅師が「鬼丸」と呼ばれる洞窟に籠もっていると、洞内の聖観世音菩薩を度々、拝みに来る老婆がいた。禅師が老婆に事情を尋ねると「自分は悪行を働いてきた鬼婆だが、観音様にお参りし、鬼畜の身を脱したい」と答えたという。過去を懺悔し、竹の杖を置いて立ち去った老婆を哀れに思い、禅師は供養のために聖観世音菩薩像を刻み、お堂を建てた。これが真福寺の始まり。鬼丸窟で修行していた名も無き修験僧は、やがて大棚禅師とされ、縁起として語られるようになったのか。この地が「大棚」と呼ばれ、「大棚山」と名づけられたのは、人名としての「大棚禅師」が先か、地名としての「大棚」が先か、これも定かではない。
けっして広い境内ではないが、かつて本堂があったと思われる空き地から観音堂に至る石段の脇には、たくさんの石仏が安置されている。古いものは風化しつつあるが、その多くに赤いよだれかけが掛けられている。もっとも新しいと思われる石仏は大きな観音像で、大棚救世観音と呼ばれる。赤子を抱くように胸に宝珠を抱く姿は、他であまり見ない。
真福寺からは、先ほど出てきた光明寺を目指す。真福寺は住職がいないため、御朱印は麓の光明寺でいただくことになる。坂道を少し下ると、「江戸巡礼古道」という看板が現れる。ここから車道を離れ、麓に向かって細い山道が延びている。しばらく歩く人がなかったようで、雑草が伸び放題。ズボンやクツに次々とひっつき虫が付くが、構わず歩く。途中、「岩棚のキンモクセイ」と書かれた看板があり、その脇に樹齢500年とも言われるキンモクセイがあるそうなのだが、花も咲いておらず、どの木か分からなかったので、そのまま通り過ぎた。
古道が途切れ、車道に合流すると、脇を大棚川が流れている。しばらくはこの美しい川に沿って、谷を下って行く。人家が増えてくると、右手前方に墓地が見えてくる。そこに光明寺がある。この地域ではかなり格式の高い寺のようで、第2番札所の真福寺、第3番札所の常泉寺、第4番札所の金昌寺、近隣の福蔵寺、秀林寺の5寺を末寺としている。
➡秩父霊場を歩く|第3番 岩本山 常泉寺 に続く