秩父霊場を歩く|第1番 誦経山 四萬部寺

四萬部寺の由来を絵解きした奉納額

旅のルーツは宗教上の聖地や霊場を巡る行為にあると言われている。自分の住む土地を離れ、自由に外の土地へと出かけることが出来なかった時代には、巡礼のみが移動の制限を免れる手段であった。日本でも江戸時代まで、庶民にとって旅とは巡礼のことであり、一生に1度は巡礼に出たいと願う人々が多かったのだと思う。

国内の巡礼というと、「四国霊場八十八ヶ所巡り」を筆頭に「板東三十三観音」「西国三十三所(観音霊場)」「秩父観音霊場三十四ヶ所」など複数の霊場を巡るものから、観光要素の強い「お伊勢参り」や「大山詣り」など、その目的やスタイルは様々。日本における旅の源流を辿り、旅に対する理解を深めたいという思いから、若い頃に四国霊場八十八ヶ所を徒歩で旅したことがある。旅に出たい、霊場巡りをしたいという思いは今でも強く、今回、東京からほど近い秩父の霊場を歩いてみることにした。

「秩父観音霊場三十四ヶ所」は1番札所から34番札所まで歩くと約85kmある。4日もあれば歩けない距離ではないが、御朱印をもらえる時間(8時〜17時)という制約もあることから、一気に歩いても5〜6日はかかる計算になる。そこで、自宅から秩父へ日帰りで通い、少しずつ巡る「区切り打ち」をすることに決めた。第1回目は、2021年10月3日(日)、台風一過で晴天となった秋の秩父路を第1番から第11番まで歩いた。その距離は約18km。出だしとしては上々の出来だ。

秩父盆地の北東端の山懐に第1番札所、四萬部寺はある。

起点となる第1番札所の四萬部寺(しまぶじ)は、秩父鉄道の和銅黒谷駅、または大野原駅から徒歩で40〜50分の距離の山懐にある。今回は効率よく歩くため、西武秩父駅から四萬部寺のある栃谷集落まで、バスを利用した。

四萬部寺は荒川の支流、横瀬川に流れこむ定峰川の段丘上にあり、狭い境内に本堂、施食殿、鐘楼堂、庫裏が建ち並ぶ。短い石段を上がり、小さな山門をくぐると、正面奥に銅瓦葺きの本堂(観音堂)が見える。元禄10年(1697)に建てられたという本堂には、御本尊の聖観世音菩薩が祀られている。本尊は金箔押しされた一本造りの立像で江戸時代のものだという。我々が目にする前立本尊は舟形の向背を背負う姿で、宝冠を戴き、蓮弁の上に立つ。

朱塗りの本堂(観音堂)は1697年に建てられたもので、埼玉県指定文化財に指定されている。右手奥は施食殿。

寺の名はその成り立ちに由来する。由緒書によると、平安中期まで溯る。寛弘4年(1007)に播州書写山(圓教寺)を開山した性空上人が、弟子の幻通に秩父で観世音信仰を広めるよう命じた。幻通は秩父へ赴き、四万部の仏典を読経した。その後、四万部の経典を供養するために築いた塚を霊場にしたことから、四萬(万)部寺の名が付けられた。なお、山名の誦経山(ずきょうさん)とは、声を出して経典を読むことをいう。

江戸後期、巡礼のガイドブックとして「観音霊験記 秩父順礼」が刊行されている。歌川国定らの手になる浮世絵を使った旅行ガイドで、各寺の由緒や逸話が、ダイナミックな絵で表現されている。後年、秩父のちょうちん屋の女将、浅賀三千子氏が、この浮世絵を模写し、34の札所に奉納したという。1988年から2013年にかけ、25年もかかったそうで、各霊場の本堂の軒下などに掲げられている。四萬部寺の浮世絵(この記事のアイキャッチ画像参照)には、幻通が4万部の経典を持って秩父へ向かう道中、菩薩の顔を持つ霊鳥が舞い降りてきた様子が描かれている。

写真上は本堂の左側にある「極楽之図」の彫刻。写真下は本堂の右側にある「地獄之図」。

本堂正面の左右の欄間には「極楽之図」の彫刻がある。向かって左側には仏陀らが住む天上界を描いた「極楽之図」、右側には鬼や地獄の責め苦を受ける死者らの姿を描いた「地獄之図」がはめ込まれている。長く風雨にさらされ、彩色はほとんど失われてしまっているが、細かな彫刻が施されており、かつては見事な欄間であったと想像できる。

境内にはモミジが植えられ、11月中〜下旬には赤く色づく。

本堂(観音堂)と並んで建つ施食(せじき)殿は、四阿(あずまや)風の舞台造りで、中央には八角の厨子があり、地蔵尊が安置されている。建物は江戸末期に廣見寺(秩父鉄道の大野原駅そば)から移築されたもの。廣見寺は秩父における曹洞宗発祥の寺とのことで、秩父観音霊場とも関係が深い。

食を施すと書いて、施食(せじき)と読むが、一般的には「施餓鬼」と呼ばれることが多い。餓鬼とは、生前に悪行を行って地獄に落ちた者、食べ物を粗末にしたり、俗世で供養してもらえなかったりした霊が、地獄に落ちて鬼となってしまったものを指す。四萬部寺では毎年8月24日に、成仏できずに餓鬼となった霊を弔う「大施餓鬼法要」が行われる。この日、秩父の僧侶が集まり、信者からは多数のお供物が送られてくるそうだ。

地蔵尊が安置された八角の厨子が中心に立つ施食殿。厨子の周囲には施餓鬼者の戒名が記されている。

幻通が詠んだ四万部の仏典を収めたという経塚の上には釈迦如来像が鎮座している。この釈迦如来像は江戸中期に奉納されたもので、明治末に行方不明になってしまった。それから約70年後、東京・銀座の美術店で発見された。銘文から四萬部寺の仏像とわかり、買い戻すことにより、寺に戻ったという。経塚には他に8体の仏像があったが、太平洋戦争時に供出され、戻って来なかった。唯一、行方不明になっていた釈迦如来像が寺に戻ったことから「お里がえりのお釈迦様」と呼ばれている。これは不思議な縁とでもいうものだろうか。

江戸中期に奉納された釈迦如来像。明治末に行方不明になり、後年、戻ってきたもので「お里がえりのお釈迦様」と呼ばれる。

四萬部寺の西隣りには、栃谷八坂神社があり、7月末には「栃谷のお祇園」として親しまれている例大祭が行われる。3台の笠鉾が曳行され、四萬部寺前の辻に勢揃いをして、八坂神社の御旅所に向かう。周囲に田畑が残る栃谷集落を飾り立てられた笠鉾が行く姿はきっと見ごとなものだろう。

この四萬部寺前の辻には、「旅籠一番」という宿が1軒だけ残っている。江戸時代から続く風情のある建物の脇の細い道は、第2番札所へと続く巡礼路となっている。

江戸時代から続く門前宿「旅籠一番」。純和風の建物は風情がある。

四萬部寺を出ると巡礼路はしばらく下り坂道になり、定峰川を小さな清水橋で渡る。県道11号線を越えると、道は交通量の少ない道となり、第2番 真福寺のある山を目指してひたすら登ることになる。

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