金昌寺を出て第5番 語歌堂に向かってしばらく歩くと秩父市から横瀬町に入る。歩くうちに建物の影に織姫神社という小さな社があることに気づいた。織姫神社は機織(はたおり)を司る天御鉾命(あめのみほこのみこと)と天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)の2柱を祀る神社。これは、かつてこの付近にあった織物工場があり、その織物工場によって祀られた神社であることが考えられる。
秩父は古くから養蚕と織物生産が盛んで、大衆の普段着として使われてきた「太織」として親しまれてきた。その後、織物技術の向上により、明治時代には高級織物の「秩父銘仙」が生まれた。秩父銘仙は、秩父市、横瀬町、小鹿野町、皆野町、長瀞町一帯で作られ、明治中期から昭和初期にかけて最盛期を迎えた。この秩父銘仙を作る工場の1つが、織姫神社をこの地に建てたのだろう。
現在では、どこにでもよくある静かな田舎町という雰囲気だが、半世紀以上前までは、機織り機の音が響く、活気ある町だったのだろう。
金昌寺から20分ほど歩くと、道路の脇にポツンと山門のある第5番 語歌堂に着く。寺の周囲には塀もなく、なんとも開けっ広げな寺だろうか。山門の左右には彩色が新しく、コミカルな印象を持つ仁王(金剛力士)像が安置されている。本堂(観音堂)は、1804年に建てられた3間(約5.4m)四方の建物で、銅板葺きの屋根を持つ。
本尊は准胝(じゅんてい)観世音菩薩像で、寄せ木造りの座像。宝冠を戴き、仏具を握る4本の腕と印を結ぶ2本の腕、計6本の腕を持つ。准胝観世音菩薩は、「准胝(じゅんてい)仏母」と呼ばれることもある母性を象徴する安産・子授けの観音菩薩として信仰を集めることが多い。インド・ヒンドゥー教の女神ドゥルガー(シバ神の妃)にルーツがあるとも言われ、ドゥルガーを模して18本の腕が描かれる仏像が多い。
語歌堂とは変わった寺名だが、その由来については次のような話が伝わっている。あるとき、横瀬に住む風流人、本間孫右衛門という者が、長興寺(地域の中心となる寺)を現在の場所に移転させ、自分の菩提寺とした。この孫右衛門の息子、あるいは孫と伝わる本間孫八は和歌に親しみ、天台宗の慈覚大師の教えを慕い、大師の作とされる准胝観世音菩薩像を安置するために私財を投じて観音堂(現在の語歌堂)を建立したという。
孫八は和歌の道を目指していたが、その希望は叶わず悲嘆に暮れていた。ある日、観音堂に1人の旅の僧が訪れる。孫八は僧と夜を徹して和歌を詠み、語り合った。夜が明け、ふと気づくと僧の姿はなく、和歌を詠みあった名残のみが残っていた。孫八は旅の僧を観音菩薩の権化だと考え、この観音堂を「歌を語る堂」として「語歌堂」と名づけて大切にしたという。
なお、この話は「観音霊験記 秩父順礼」の語歌堂の項にも描かれているが、本田孫右衛門と孫八が実在したかどうかわからない。
語歌堂は無住の寺で、御朱印はここらは東に3分ほど歩いたところにある長興寺でいただく。渓苔山 長興寺は、1462年に開山された臨済宗南禅寺派の寺院。本尊は地蔵菩薩像。こぢんまりしているが、建物はいずれも新しいものに建て変わり、境内は明るい。門をくぐってすぐ左手に六地蔵が並ぶ。5番札所の語歌堂、9番札所の明智寺の管理を行っている。
長興寺で御朱印をいただいた後、巡礼路を南に下り、山の縁に沿うように歩くと、突然、視界が開け、棚田が広がる。「寺坂棚田」として知られ、田んぼに水が張られる5月頃、稲穂が色づく9月中旬、ヒガンバナが咲く頃には多くの人が訪れ、シャッターを切る。向かいには武甲山がそびえ、秩父ならではの水田風景が見られる。