私の家の最寄り駅である西武新宿線の新井薬師前駅を降りると北へ向かう狭い通りがある。看板には「薬師前北口商店街」とあるが、昔は「オリエンタル通り」と呼ばれていた。この通りを5、6分歩くと、妙正寺川を渡る四村橋に出る。かつて、この橋の手前左手と川向かいの右手に感光材料の国産化をいち早く実現した「オリエンタル写真工業」の工場があった。このことから、新井薬師前駅から続くこの通りを「オリエンタル通り」と呼んでいたのだ。日本の写真の歴史を知る上で重要なこの「オリエンタル写真工業」について、資料を眺めながら、書き出してみようと思う。
このオリエンタル写真工業創業のキーマンとなるのが、山形県出身の菊池東陽(1883〜1939)だ。江戸末期より4代にわたり写真に携わる家に生まれた東陽氏は、全国各地で修行を重ね、写真館経営に携わった後、1904年に渡米する。シアトルを起点にアメリカ合衆国の各地を転々とし、最終的にはニューヨークへ。「ホームポートレート」という出張撮影のスタイルを確立し、1910年には5番街に「キクチスタヂオ」を設けるまでになる。渡米中、日本国内で使われる感光材料はすべて輸入に頼っているという現状を危惧し、感光材料の研究を行う。その努力が実り1918年には感光性乳剤の製造法を確立する。
1919年に帰国後、渋沢栄一らの支援を受けて、オリエンタル写真工業を設立する。このとき、設立に加わったメンバーの中に勝精(かつ くわし)なる人物がいる。彼は勝海舟の家督相続人として迎え入れられた養子で、実の父親は徳川慶喜だという。徳川慶喜といえば、徳川最後の将軍であり、趣味の1つに写真撮影があった。明治に入り、誕生間もない写真雑誌に作品を投稿したがまったく採用されなかったというエピソードが伝わっている。オリエンタル写真工業の設立に、今年のNHK大河ドラマの主人公である渋沢栄一は出てくるは、徳川慶喜の十男がかかわっているは、なんとも不思議な巡り合わせだ。
オリエンタル写真工業は、1919年創立。工場は東京府豊多摩郡落合村字葛ヶ谷(現在の東京都新宿区西落合2-18)に設けられた。妙正寺川に面したこの地は、水の確保に都合がよかったのであろう。1921年に肖像用印画紙「オリエント」を発売する。しかし、当時は舶来品を好む人が多く、国産品はまったく売れなかった。翌1922年には「オーケー」実用印画紙、現像液の「オリエンタルMQ」を発売。1934年にはロールフィルムが発売される。
前後するが、1924年に写真雑誌『フォトタイムス』を創刊。ちなみに、写真雑誌の草分けは、1894年創刊の『写真月報』(小西本店発行→のちのコニカ)、それに続いて『カメラ』(アルス発行)が1921年に創刊される。オリエンタル写真工業の社史をみると、撮影会を各地で開催している。当時、感光材料メーカーが積極的に写真の啓蒙活動を行っていたことの一端がうかがえる。
また、1929年には工場敷地内に「オリエンタル写真学校」を開設。 これより前、1923年には小西写真専門学校が設立される。これが後の東京工芸大学。両校とも写真家の養成、技術者の育成を行い、オリエンタル写真学校では、映画監督の木下恵介、写真家の植田正治、林忠彦らが学んだという。かれらも西武新宿線の新井薬師前駅を降り、旧オリエンタル通りを歩いて、写真学校に通ったのだろうか。学生寮もあったようなので、西落合に暮らしていた可能性もある。彼らは哲学堂あたりで、撮影実習を行うこともあったであろう。
太平洋戦争中、敵性語が入っているという指摘があったのか社名を「東陽写真工業」に変更。写真学校も廃止となる。そして、戦後に社名を「オリエンタル写真工業」に戻す。
創業の地、西落合には2つの工場と写真学校、学生寮などがあったが、1945年5月の空襲により、第一工場、写真学校、学生寮などを焼失。残る第二工場と新設された平塚工場で再スタートを切る。妙正寺川沿いに建っていた第二工場は、正門前に庭園、噴水があり、時計台のある石造りの美しい建物だった。
1953年には国産最初のカラーネガフィルム「オリカラー」、カラー印画紙の「オリエンタルカラーペーパー」、引伸用印画紙「シーガル」を発売する。1970年にはモノクロ多階調印画紙「イーグル」を発売。その後も、「オリエンタルパンクロペーパー」「ニューシーガルG」など、昭和の写真ファンにはおなじみの印画紙が続々と出てくる。
1983年、オリエンタル写真工業は創業の地を離れ、工場を西落合から御殿場市へ移すことになった。現在、最後まで残っていた第二工場の場所は、新宿区立妙正寺川公園と大型の集合住宅となっている。第一工場跡には日本通運の倉庫、東京海上日動の研修所などが建っている。そして、写真学校があったと思われる場所は、新宿区立落合庭球場とマンションに利用されている。ひと通り歩きまわったが、オリエンタル写真工業の痕跡や記念碑などは見つけられなかった。唯一、その存在を思い起こさせてくれるのが、第二工場跡の集合住宅の一階に設けられた「オリエンタル診療所」という名前だ。
1980年代、90年代のコダック、富士写真フイルムの大躍進の影で、オリエンタル写真工業は、1995年に会社更生法適用を申請、97年にはDPE大手のプラザクリエイトに買収される。2000年、社名を「サイバーグラフィックス株式会社」に変更し、引き続き印画紙を中心に感光材料を利用した製品の販売を行う。現在は、イギリスのハーマン・テクノロジー社が扱うILFORD、Kentmeraの写真フィルム、印画紙、現像用薬品、PATERSONの暗室用品、2016年に復活したオリエンタルブランドのモノクロネガフィルム「ニュー シーガル」など、銀塩写真関連製品の販売代理店として存続している。
銀塩写真の乾板、フィルム、印画紙の国産化を目指してスタートしたオリエンタル写真工業は、時代の変化に伴い、会社の姿を変えながらも生き延びてきた。サイバーグラフィック社となり、他社ブランドを販売する代理店となっても、「オリエンタル」「ニューシーガル」「イーグル」のブランド名を維持し続ける姿を頼もしく思う。デジタル全盛時代だが、サイバーグラフィック社のような存在があるかぎり、この先も銀塩写真を楽しみ続けることができるだろう。