あきる野市の有名な寺院に大悲願寺がある。「悲願」というと「悲願の優勝」とか、「長年の悲願を達成」とか日常的に使う言葉だが、本来は仏教用語。「慈悲の本願」を意味し、仏や菩薩が衆生(人間およびすべての生物)を救済するために立てる祈願のことで、人間ごときが抱くささやかな願いなどに使う言葉ではないようだ。そんな仏の慈悲心を表した悲願の名を持つこの寺は、平安末期に京都・醍醐寺三宝院の僧を招いて開山されたと伝えられている。
秋川沿いの段丘上に建つ大悲願寺は、別名「萩の寺」とも呼ばれ、お彼岸の頃になると見事な白萩が咲く。江戸屋敷に滞在していた伊達政宗が秋川で川狩り(政宗は鮎釣りの名人だったとも)を楽しんだおり、悲願寺に立ち寄り、白萩の見事さに驚いたとされている。寺のすぐ下を流れる秋川にも降りてみたが、政宗はこのあたりで鮎釣りをしたのだろうか。
本堂は屋根こそ近年、瓦がきれいに葺き替えられているが、1695年というから元禄年間に建てられた年代もの。内部は当時の雰囲気を残しているそうで、東京都指定文化財に認定されている。杉やイチョウの古木に囲まれた観音堂は1794年建立で、木造の阿弥陀三尊座像が安置されているとのこと。内部を拝観できなかった(年に1度、ご開帳がある)が、国指定の重要文化財のようなので納得。観音堂には「無畏(むい)閣」と書かれた扁額がある。この「無畏」とは、仏が教えを説くときの何も恐れない態度を意味するそうで、そのことを絵解きしているのか、多彩な彫刻が軒下に掲げられている。
観音堂の軒下にある見事な彫刻は、江戸末期に作られたもののようで、彩色豊かな当時の姿が復元されている。正面中央の唐破風向拝には、龍や天女、仙人の姿があるので、天上の世界を描いたものと思われる。向かって右側、本堂上部の欄間には閻魔大王とその前にひれ伏す死者たちの姿、釜ゆでされる者、鬼に舌を抜かれる者など、地獄の様子が描かれている。向かって左側の欄間には、右側の地獄の続き、血の池地獄があり、その左手には金色に輝く、阿弥陀如来と思われる仏の姿がある。日光東照宮の彫刻を見た者が、オラが村の寺にも彫刻を施そうと思ったのかもしれない。彫物には奉納した施主の札が添えられており、地元の大工や彫り師の手によって作られたことが推測できる。素朴ではあるが、なかなか立派なものだ。
この観音堂は2005年から2007年にかけて解体修理されている。以前、訪れた際にはもっと薄汚れたお堂だったが、平成の大修理できらびやかな彩色が施された江戸末期の姿に近づけられたのだろう。そばを通る五日市街道はバイパスができ、旧道を通る車は少なくなった。山裾にひっそり佇む寺は、心惹かれる。