秩父霊場を歩く|第4番 高谷山 金昌寺

金昌寺は石仏の寺。境内には1000体以上の石仏がある。

次の第4番 金昌寺は、第3番 常泉寺から1kmほどの距離があり、徒歩で15分ほど。途中、歩行者専用橋の「ふるさと歩道橋」で再び横瀬川を渡る。県道11号線を横切った先、クランク状の道を抜けると、正面に朱塗りの立派な仁王門が見えてくる。その背後の山の斜面には本堂や六角堂などが散在している。

仁王門の正面には巨大なわらじ。金剛力士(仁王)が履くものとして祀られている。

どっしりと大きな銅板葺の屋根を持つ入母屋造りの仁王門。門の上層には、五百羅漢の石仏が複数安置されているのが、外から見える。江戸中期の宝暦8年(1758)に建てられたもので、左右には全長2mを超える大きなわらじが下げられている。これは仁王堂に安置された金剛力士が履くものとされ、わらじが大きいほど魔除けの力が強まり、御利益も大きくなると考えられた。

2体の金剛力士(仁王)像は、仁王紋と同じ時期に作られたものだろうか、江戸の仏師の手になるものと言われている。彩色ははげ落ちてしまっているが、眼光鋭く、荒々しい姿は、迫力満点だ。

仁王門の左右に金剛力士像が1体ずつ。左側が吽形(うんぎょう)像、右側が阿行(あぎょう)像。彩色は傷んでいるが、迫力のある表情を見せる。

仁王門をくぐり、石段を上がると、右手に十一面観音像を安置した背の高いお堂がある。この十一面観音は高さが一丈六尺(約4m80cm)あることから丈六十一面観音と呼ばれているが、比較的新しいもので本尊ではない。

右に緩やかにカーブした参道を上がっていくと左右に無数の石仏が並んでいる。これは江戸初期の住職、古仙登嶽が寺の再興と天災の犠牲者を弔うために千体の石仏を安置することを発願し、寄進を集め、約7年かけて揃えたもの。その後も信者による寄進が絶えず、現存するだけで1319体にものぼる。これらの石仏は埼玉県指定文化財に登録されている貴重なものだ。

仁王門から本堂へ向かう坂道の両側には無数の石仏が並ぶ。正面奥が本堂。

金昌寺6代目の住職である古仙登嶽は、やり手だったようで、江戸に出ては寄進や仏の奉納を受けていた。特に大奥との行き来があったことから、側室や奥女中が堕胎したとき、これを弔うために回向(えこう)仏が奉納されていた。紀州や越前など著名な藩名が刻まれた石仏が境内に30体以上残っていることには驚かされる。これらの石仏は長い間、風雨にさらされ、角が取れ、丸みを帯びており、苔むして周囲の緑と同化するように木々の間に佇んでいる。

江戸中期に建てられた本堂。軒下には様々な千社札が貼られている。

本堂は舞台造りになった銅板葺きの方形のお堂。室町時代に作られた十一面観世音菩薩像が本尊として安置されている。脇侍(わきじ)として、鎌倉期末の作とされる地蔵菩薩像があるという。前立て本尊は、雲光紋が施された舟形向背を負い、蓮弁の台座の上に立つ十一面観世音菩薩像で、金箔押しされた木造となっている。

本尊の十一面観世音菩薩像は、寺の縁起にも出てくる。この金昌寺は「荒木寺」とも呼ばれ、その由来はこの地に住んでいた荒木丹下という者にあるそうだ。昔、悪行ばかりする荒木丹下という者がおり、あるとき、施しを求めてきた巡礼者に酷い仕打ちをした。すると巡礼者は「仏様は人は誰しも平等だと説いているのに、なぜこのようなことをするのか」と言うと、丹下はその言葉に我に返り、以後、観世音を信ずるようになったという。この荒木丹下に縁のある観音様ということから、この地にあった寺が荒木寺と呼ばれるようになった。この話は「観音霊験記 秩父順礼」の金昌寺の項にも描かれている。

「マリア観音」とも呼ばれる子育て観音像。膝の上の赤子に乳を与える姿は他にあまり見ない。

本尊とは別に、本堂の外陣(参拝客が立ち入れる場所)に風変わりな石仏が安置されている。半裸の女性の姿を持つ「子育て観音」と呼ばれる観音像で、赤子を膝の上に乗せ、乳を与える姿となっている。観世音菩薩は性を持たない存在のはずなので、この子育て観音には別の信仰が混じっていると考える。古来から子授け・安産・子育ての神として「子安神」というものが信じられ、全国各地に子安神社がある。祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)で、後に観音信仰と結びついて、子安観音となった例が残っている。この子育て観音も子安観音から影響を受けたものだと想像できる。

また、こんな話もある。秩父の隠れキリシタンが、子安観音を聖母マリアに見立て、信仰していたというもの。「マリア観音」と呼ぶ人もいるとか。木花咲耶姫はニニギノミコト(天照大神の孫)と結ばれ、子を成したが、授乳する姿を伝える絵は残されていない。これに対して、聖母マリアが授乳する姿は古くから絵に残されている。また、一般的に子安観音像は赤子を抱いているが、授乳中の姿を描いたものは他にはない。そうしたことから、金昌寺の子育て観音を聖母マリアに例えたくなる気持ちもわかる。

では、秩父に隠れキリシタンが本当にいたのか、という疑問について軽く調べてみたが、秩父各地に残る江戸時代の高札の中に、「切支丹(キリシタン)宗門禁止令」と書かれたものがいくつも残されている。山深い秩父は、身を隠すのに都合がよかったのだろう。

本堂裏の石段を上がると、苔むした石仏が並ぶ。頭の無いものは明治の廃仏毀釈の際に壊されたとも。

本堂裏手に六角形をした六角堂が建つ。ここには修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られている。これは、秩父観音霊場の成立に修験僧が関係していたからで、本尊の脇侍である地蔵菩薩像が修験道と縁の深い仏であることとも合致する。1957年の学術調査によると、本尊の十一面観世音菩薩像が室町時代の作であるのに対して、地蔵菩薩像は鎌倉時代の作であることが明らかになっている。このことから古くは地蔵菩薩像を本尊とする寺があり、それが後年、観音信仰によって本尊が交代したという見方がされている。

金昌寺の奥の院とされる岩屋には弘法大師像が鎮座している。

金昌寺の裏手の山道を登ると奥の院と呼ばれる岩屋が現れる。ここには弘法大師像があり、古くは真言宗の信仰がこの地に伝わっていたことがうかがえる。弘法大師と修験道は結びつきが強く、弘法大師信仰を修験僧が全国各地に広げたとも言われている。秩父観音霊場の成立期に、修験僧が大きな影響を与えたことが想像される。

そもそも聖地を巡り、巡礼するというスタイルは、日本においては修験道にあると私は考えている。街道が整備されておらず、自由に外と行き来が出来なかった室町以前、全国に信仰を広めたり、芸能を伝えるのは修験僧であった。国内の巡礼地を尋ねると、修験道の痕跡が残っているのは当然のことかもしれない。

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